≪はじめに≫
一昨年の12月に「非財務情報の開示へ向けた取り組みについて」と題してクライアント向けセミナーを開催し、大変多くの方にご視聴いただきました。当該セミナーでは、最近ESGの観点からも目にすることが多い「価値創造ストーリー」と同じく関心が高いと思われる気候関連開示のうち、特にハードルの高いTCFD提言の「シナリオ分析」と「GHG排出量計算」を中心にその取り組みを始めるための基礎的な知識について、説明いたしました。本稿では、当該セミナーにおいて時間の都合上割愛した内容を中心に、引き続き解説します。
≪ISSB及び国内の動向≫
ISSB(国際サステナビリティ基準審議会/International Sustainability Standards Board)は、今年の2月16日に昨年3月にリリースした2つの公開草案、「サステナビリティ関連財務情報の開示に関する全般的な要求事項(IFRS S1)」と「気候関連開示(IFRS S2)」について、全会一致で最終合意したと発表しました。また、新たな報告基準を2023年の半ばに公開し、企業のサステナビリティ及び気候関連開示に関する基準の適用開始時期を2024年1月1日とすると公表しました。
これに対して日本では、SSBJ(サステナビリティ基準委員会)が、今年の3月に日本のサステナビリティ開示基準の開発に向けたプロジェクト計画について、その概要を説明しました。
- ISSB基準によって確立されたサステナビリティ関連開示のグローバル・ベースラインを基礎として、日本のサステナビリティ開示基準を開発
- 公開草案を2023年度中(遅くとも2024年3月31日まで)に公表
- 確定基準を2024年度中(遅くとも2025年3月31日まで)に公表
- 基準は、早期適用が可能となる予定
- 強制適用の時期については、後日SSBJにおいて議論する予定
- 目標どおりに確定基準を公表した場合、確定基準公表後に開始する事業年度から早期適用が可能となる予定
- ただし、確定基準公表後に終了する事業年度から早期適用を可能とするかどうかについて議論する予定
なお、SSBJ(サステナビリティ基準委員会/Sustainability Standards Board of Japan)とは、国際的なサステナビリティ開示基準の開発への意見発信や国内基準の開発を行うことを目的に、2022年7月にFASF(公益財団法人財務会計基準機構)の下に設立されたプライベート・セクターの機関です。なお、日本のサステナビリティ開示基準の法的枠組みは金融庁が決定することとなっており、SSBJはその枠組みが設定された後に、その枠組みに沿って国内基準を開発することとなります。
≪ISSBによる新たなフレームワーク≫
ISSBが公表している2つのフレームワーク(IFRS S1及びS2)では、TCFD提言の基本となる4つの要素(ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標)をベースに、以下の3つの要求事項が定められています。
〇全般的な要求事項(IFRS S1)
サステナビリティ開示に共通して要求される全般的な事項を規定
〇テーマ別の開示要求事項
第一弾として、気候関連のリスク・機会に特化した要求事項を規定(IFRS S2)
〇産業別の開示要求事項
気候関連開示(IFRS S2)の付録として、11セクター・68産業について産業特有の指標を規定
≪シナリオ分析≫
セミナー時にはTCFD提言を中心にその背景、全体像、提言内容等について全般的に解説しましたが、本稿では、ISSBが公表した2つのフレームワークの中でも最もハードルが高いと思われる、気候変動開示におけるシナリオ分析の必要性について解説します。
シナリオ分析はIFRS S2の「戦略」において、移行リスク(注1)及び物理的リスク(注2)を含む潜在的で、かつ、不確実性を伴う気候関連のリスクと機会(注3)に対する企業の「気候レジリエンス」を評価するための手法として用いることが要求されています。
「気候レジリエンス」とは、直訳すると回復力、弾力性、強靭性などの意味があり、気候変動という不確実性に対する企業の戦略的・財務的な対応・調整能力を表しています。
評価手法としてのシナリオ分析とは、簡単に言うと企業が自ら設定した気候変動に関する複数の仮説に基づいて、その影響を評価して対策を検討するプロセスであると言えます。
それでは何故、気候変動に関してシナリオ分析が必要なのでしょうか。
2015年の国連気候変動枠組条約締約国会議(COP21)、いわゆるパリ協定において世界共通の「2℃目標」が掲げられましたが、実際には脱炭素化の未来は確定している訳ではなく、また、脱炭素化の未来が訪れたとしても、その時の社会・経済の状況や訪れる時期について、確定的なことは誰にも判らないというのが現実だと思います。加えて気候変動に関しては、その影響は広範囲に及ぶため、全ての企業が少なからず何らかの影響は受けることになると考えられています。
その影響が大きく、また、即時に対応することが難しいと想定される事象が潜在している状況で、事前に準備(意思決定)していないとその企業の持続可能性に疑念が生じると判断される可能性があります。その様な状況下において不確実な未来を想定せず、または必ず「こうなる」という一つの未来に絞って、その選択のもとで社運を賭けた意思決定をしますか、とISSB(TCFD提言)を通して投資家は問いかけています。
2℃目標が実現し脱炭素化社会へ移行した場合、現状のビジネスモデルのままで存続・成長できるか、逆に2℃目標が現実的に達成できない場合には、社会はどう変化し自社のビジネスモデルはどう変革するべきかという問いかけに対して、起こりうる複数の未来を想定し、そのどれが訪れても持続可能な備え(レジリエンス)が必要ではありませんか、という観点からシナリオ分析の必要性が求められています。
すなわちシナリオ分析は、気候変動によって起こり得る不確実な未来に対して、根拠を伴う複数の仮説に基づいて、企業の意思決定を可能にするためのプロセスであると言えます。
なお、シナリオ分析は、実際に取り組むにはハードルの高い手法であるため、ISSBも実施が困難な企業に対しては、代替的な手法(定性的な分析など)を用いて気候レジリエンスを評価することも認めています。
これから取り組まれる場合は、環境省をはじめ多くのガイドラインが公表されていますので、まず基本を理解した上で自社に合ったガイドラインを選択し、先行している同業他社の事例と見比べることから始めるのも一案だと考えます。
(注1)移行リスク
気候変動緩和を目的とした低炭素経済への移行は、政策、法律、技術、市場の変化を伴い、その変化の性質、速度、重点に応じて、財務やレピュテーションに影響を与えるリスクであり、主に5つに分類される。
・政策及び法規制が変化することによるリスク
低炭素経済への移行にあたり、炭素税の導入、エネルギーに対する優遇措置などの政策や法規制の変化により、税負担や座礁資産化による財務的な影響が発生するリスク
・訴訟又は法的リスク
気候変動への適応の失敗、不十分な開示による訴訟など、気候変動関連で損害賠償が発生するリスク
・技術リスク
低炭素経済への移行に備えた新技術の開発や利用で後れを取るリスク(再生可能エネルギー、蓄電池、省エネなど)
・市場リスク
気候変動の影響に伴い、特定の商品、製品、サービスの需要と供給が変化していくリスク
・評判上のリスク
低炭素経済への移行に適応できない場合に、顧客や社会からのレピュテーション(評価・評判)が低下するリスク
(注2)物理的リスク
気候変動に起因した災害等により顕在化するリスク。資産に対する直接的な損害、サプライチェーンの寸断による間接的な影響などがあり、主に2つに分類される。
・急性リスク
異常気象による集中豪雨、洪水などの突発的な事象に起因して、財務的な影響を受けるリスク
・慢性リスク
気候変動による海面上昇などの長期的な気候パターンの変化により、財務的な影響を受けるリスク
(注3)機会
気候変動への対応、取組みによってもたらされる機会(ビジネスチャンス)
・資源の効率性
資源利用の管理、効率性向上による操業コストの逓減、生産能力の拡大など
・エネルギー源
グリーンエネルギー源の分散化、技術進歩によるエネルギーコストの軽減など
・製品及びサービス
低排出型の新製品、サービスの開発による競争力向上、消費者等からの選好など
・市場
新しい市場等への積極的な取り組みによる社外からの協力、連携、活動の多様化、競争力の獲得など
・適応能力
気候変動リスクの管理、対応能力の向上を通じた効率性の向上、新たな製造プロセス、新製品の開発、サプライチェーンの信頼性向上など